今日は友人の紹介で福岡ビジネス協議会の5周年記念講演会を聴きに、福岡国際会議場まで行ってまいりました。 

A)第一部の講演『スポーツから得られるコミュニケーションと健康』

 講師の谷川真理さんとは、ご縁があります。ご本人とはお話したことはなかった(今日は質問に立って、お話をすることが出来ました)のですが、1994年4月にドイツ・フランスに出張した時に、丁度パリマラソンが開催されていたので、シャゼリゼで一生懸命応援をして、谷川さんの優勝を自分のことのように喜んだことを今でもはっきりと覚えています。そして、その翌々日に帰国した東京の神保町の路上でマラソンの練習をされている谷川さんの素敵な姿に驚き感動しました。 

 今日は、当時と体型も美しさも変わらない谷川さんの講演を聴くことが出来てとても嬉しかったです。4列目から、一生懸命念力を飛ばしていましたら質問の時に、「熱い視線を感じていました。」とおっしゃってくれました。(笑) さて、谷川さんの講演はとても質の高い講演で、ユーモアにも溢れ時々講演する自分にも大変参考になりました。いくつか印象に残った、お話があったので紹介します。


1)2007年東京国際女子マラソン

 自分はけがで東京国際女子マラソンには出場できなかったが、野口さんの走りは素晴らしかった。特に苦しい39KM付近での走りが変わらなかったのには感動した。2年数カ月ぶりのマラソンにも拘わらず、素晴らしい走りが出来たのは、左足の度重なるけがからフォームを変えたこととトレーニングの賜物であろう。


2)ランナーとしてのキャリア

・中学時代中距離を走っていたが、水も飲ましてもらえず苦しくて中学校の途中で止めた。それを悔んで高校では絶対に3年間続けようと心に決めた。しかし、1000メートルや200メートルのインターバルをいやいや走っていた。当時、成田高校には増田明美さんがおり、高校新記録を出していた。

・高校を卒業して英語学校に通ったが、出席だけ取ってもらって、もっぱら社会勉強をしていた。金、土、日はサーフィンやスケボーやスキーをしていた。(ディスコ・クィーンでもあったようです。私と話が合うかも。)

・20歳で大手町のサンケイビルにあった会社のOLになり、3~4年経つと仕事にも慣れたころ、昼休みに近くの皇居の周り(一周5KM)をサーファールックで走り始めた。当時女性の数は少なく、目立つ存在で、一緒に走っていた男性に「良い走りをしている」と褒められたりして、走り続けた。そんな時、都民マラソンで一番になったら、ただでオーストラリアのマラソン大会に行けると聞いて、一所懸命練習してかった。それからは目標が出来て、静岡などの市民マラソン大会に出て勝ち、ボストンやサンフランシスコのマラソン大会にただでビジネスクラスに乗って参加することが出来た。市民マラソンの多くが1500円~2000円の出場料を取ったが、それ以上の賞品を獲得出来て、それが励みになった。


3)地雷廃絶活動との関わり

・地雷は一個300~500円、取り除くのに5万円掛る。地雷問題とは1997年から関わりを持ち、1998年には、対人地雷除去作業で片足を失ったランナー、クリス・ムーン氏と一緒に箱根から東京まで一緒に走り、痛いとか、辛いとか、苦しいとか弱音を吐かないムーン氏の頑張りに感動した。ムーン氏は米国のデスバレーでは200KMの距離を走破し、帰りも走って帰った。彼は、障害のある人でも、健常者以上のことが出来ることを言葉ではなく行動で示している。

・パキスタンやアフガニスタンにも行ったが、家のそばに埋められた地雷の被害で手足をなくした女の子や釣りに行って両腕をなくした男の子と会った。「何と声をかけたら良いのか」と迷ったり、土産のキャンディーをあげた時、「次にはいつ食べられるのだろう」と援助の仕方も考えさせられたりした。


4)マラソンを通して思うこと

・1996年のアトランタオリンピックの選考レースの時は一番つらかった。膝を痛め、体調不良のまま臨んだ名古屋国際マラソンでは結局2時間35分で、選考に漏れた。しかし、自分はプロランナーとして谷川真理として走り続けることに意義がある。

・マラソンでは他を意識するとストレスがたまり、ストレスも感じる。自分をライバルと考え、自分自身と闘うことが大切である。

・マラソンを通じて、季節の移り変わりや自然のエネルギーを感じている。体力があれば、人生が充実できるし、食べ物もおいしい。吸ったり吐いたり呼吸をすることで体の中から元気になれる。


5)走り方のアドバイス・水分の補給は大切で起床時と就寝時にコップ一杯の水を飲むことを勧める。

・体重移動をスムーズに行うには、みぞおちから足が出ているイメージで、骨盤を意識しながら歩き走る方が良い。

・シューズは大事で、サイズは夕方少しむくんだ状態で指一本くらい余裕があるのが良い。走る時は体重の3倍の負荷がかかるので、靴のかかとは厚い方が良い。(質問時、つま先に弾力性のあるシューズが良いとのお話もありました。)

・無理をせずテキストどおりにジョッギングすると長続きする。

・疲労から早く回復するには、走った後牛乳を200~300CC飲むのも効果的。走る練習をしたり、マラソンを走ったりする時、一番苦しいのはたった10分。その10分を耐えることが大切。

忍耐は苦しいけれどもその実は甘い。


尚、谷川さんの現在の活動の詳細については、彼女のホームページをご参照下さい。 http://www.tanigawamari.co.jp/


B)第2部 『骨髄バンク。今新たな一歩』

 講師は全国骨髄バンク推進連絡協議会会長の大谷貴子さんでした。 大谷さんのお話は、ご自身の余命数ヶ月と言われた白血病克服の実体験を語られたので、大変感動的でした。

1)白血病の克服

・父が医者だったが、白血病を不治の病として考え、彼の書棚の古い本もそう書いていたので、父も自身も、どのようにして死んで行くかを考えていた。

・しかし、米国にいる姉は違っていて、骨髄移植の情報をもたらしてくれた。・日本では患者が医者に質問すると怒られることが多く、医者の父も主治医に対する質問を押さえつけたが、入院した京大病院の主治医は「普通はがんの場合告知はしないが、あなたは既に告知されているので、お互いに勉強しながら治療して行きましょう。」と言ってくれた。

・白血球の血液型は赤血球(4つ)と違い、25億通りありと言われており、それを聞いて非常に落胆したが、東洋人に限れば1万分の1と確率があがることが分かった。

・当時米国には既に骨髄バンクがあったが、日本にはなかった。個人的に友人に頼むことも難しかった。

・白血病の治療の一番の問題は、適合する骨髄液の提供を受けられるかどうかだが、姉は「骨髄バンクが日本にないなら自分で作ったら良い」と言った。余命幾ばくもない自分が逡巡していると姉は「あなたが間に合わなくても後の人が助かる。」と言った。それを聞いて、姉からも見捨てられたと感じた。

・しかし、姉はもっと前向きであり、一緒に署名活動を始めたところ、文化人類学者から自分のルーツを辿ることで適合者発見の確立をあげられるとの情報を得た。・幸い父母方の祖父母とも同じ地域から出ていた。そこで、「父母の場合は適合することは皆無だから、検査は無駄だ」嫌がる父親、それから母親の骨髄液検査を行うと母の骨髄液が適合した。

・骨髄移植をする際も、自分は全身の94.5%の細胞ががんに侵され、余命1か月まで弱っており、6人の医者の内、5人が「移植で苦しめず、静かに死なせる」よう移植に反対したが、1人の医者は「移植による治癒の可能性は1%」と言った。これを聞いた姉は「1%も可能性があるなら」と移植をするよう医師団に迫った。・それで、移植が行われ運よく完治して現在に至っている。

(ご家族の愛と努力とご自身の頑張りの生んだ奇跡ですね。)

・1991年に始めた骨髄バンクも16年になり、登録者が目標の30万人を超えており、今までに約9000人が適合骨髄を提供した。日本では年間6000人が白血病を発症しており、更に多くの登録者が望まれる。・尚、骨髄バンク登録には年齢制限があり、18~54歳となっている。(講演が終わって、骨髄バンクの人々に年齢制限の理由を聞きましたら、「体力の問題から」と言うお話だったので、「自己責任で登録させて下さい」と頼んだのですが、残念ながら受付られませんでした。)


2)骨髄提供体験者のインタビューお二人の方が、壇上に上がられ大谷さんからの体験インタビューを受けられました。

・提供には家族の賛成がいるが、お二人とも奥さまは賛成したが、母親が当初反対したとのことでした。

・提供時の全身麻酔(まれに局部麻酔)に対する恐怖はなかった。

・痛みはさほどではなく、微熱が出て体がだるくなったが、約1週間で治った。

・最終同意・健康診断・貯血・入院などのプロセスで合計約10日のお休みが必要となるが、これは有給休暇の消化で対応した。


3)意識の高い18歳から54歳までの皆さんの骨髄バンク登録をお願い致します。


-以上-